念願の TSUTAYA デビューをキメ、観たい観たいとずっと主張しておきながら全然観れてなかった「愛のむきだし」を借りて観たので、感じたことを書き留めておきたい所存です。完全に、こないだ「地獄でなぜ悪い」を観た影響です。ミーハーです。
それでは以下、断片的なメモ書きレベルの所感ですが、今後園さんの作品を観るときのために綴ります。
愛のむきだしなにそれ?という方は こちら。
タイトルの通りむきだされている愛について
- 日本人特有の人間性と対比されてこそ、ユウ・ヨーコ・コイケに欠落していたものだからこそ、活きてる、というか生きてる
- 4 時間分のアクの強い要素(変態行為やら宗教やら)が目立つけど、love が exposure するのを惹き立てるものにすぎない感はある
- ここで言及されてる愛が、コリント使徒への手紙第 13 章で語られている愛そのものなのかは判断ついてない
なんとなく感じたこと
- 飲みこもう飲みこもうとしていたけど、映画というよりも現実だから、軽く飲みこめなくて然りなのかもと思った
- 登場人物の背景が視える魅せ方をしてくれるので、現実っぽいのかなと思った
- これがキャスティングだって感じした
なんとなく印象に残ったこと
- ヨーコには見えてる銃弾、その存在を認識してる人からすると、死に突然という概念はない、的なくだり
- コリント使徒への手紙第 13 章をヨーコが紡ぐところ、と物語の展開との対応
- コイケがあれをちょんぎったとこ、というか、コイケ全般
音楽
- 中毒症状出てる
- 「地獄でなぜ悪い」然り、音楽が異様に耳残りするの、これはホントに異様だし、こだわりを感じる
コリント使徒への手紙 第 13 章
新約聖書の中の有名な一節。作中でもろに愛が語られる場面で引用される。
結婚式とかでよく引用されるらしいけど、個人的にそれはちょっと違う気がしてる。
このシーンは見返してみて初めて鳥肌が立った。
初見のときに鳥肌立たなかったのは逆に凄い。もちろん自分じゃなく作品が。
以下、映画より引用。
最高の道である愛。
たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、
愛がなければ私は鳴る銅鑼、響くシンバル。たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
愛がなければ私は何者でもない。たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、称賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ私には何の益にもならない。愛は寛容なもの。
慈悲深いものは愛。
愛は妬まず高ぶらず誇らない。
見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない。愛は決して滅び去ることはない。
予言の賜物ならば廃りもしよう。
不思議な言葉ならば止みもしよう。
知識ならば無用となりもしよう。我々が知るのは一部分、また、予言するのも一部分であるゆえに、
完全なものが到来するときには、部分的なものは廃れさる。私は幼い子供であったとき、幼い子供のように語り、
幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らした。
ただ、一人前の者になったとき、幼い子供のことは止めにした。我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの。
そのときに見るのは、顔と顔を合わせてのもの。
私が今知っているのは一部分。
そのときには自分が既に完全に知られているように、私は完全に知るようになる。だから、引き続き残るのは、
信仰、希望、愛、この三つ。このうち最も優れているのは、愛。
最後の方にある「今」と「そのとき」ってのが対比になってることに気づくのが遅くて、ずっと「最後どうして順接で締めくくれるの??」ってなってたけど、そこの対比と「そのとき」のことを考えると順接で然りだなと腑に落ちた。
愛やらなにやらに関わらず、ここで鏡に比喩されているものだけをもってして自分を満たしていては小物感ある感じするけど、個人的には「積極的に鏡に頼っていこう、むしろ鏡があるからこそ今がある」という方向に物事考えるので、難しい感じ。
あと、「大人」って言っちゃいそうなところを「一人前の者」ってキメてるあたりは渋いなと思った。あと、「私は鳴る銅鑼」って表現、中二病っぽくて好き。
まとめ
- 喉までいったら愛に固執せず消化したい
- まとまらないけど、とりあえずむきだせるものむきだしていこうと思った
- 単純に知識足りなくて表現についていけてないとこがいくつかあったのはつらかったので、勉強する