いろいろ縁があって、SUNNY BOY BOOKS という古本屋の店主さんと話していたときに、「園さんの映画とか好きで観ますね〜」って言ったら薦めてもらったので読んだ。読んで考えたことがいくつかあったのでメモ。ちなみに、コレ読むまでは Chim↑Pom 知らなかった。。
オリジナリティと不変性
は相反しているような印象を受けるけれど、実はあんまり変わらないものととらえることもできるんだなあと思った。ある時代のある環境(国、社会、身体)を生きた 1 人の人間を色濃く映し出した作品を、時間や場所を超えて、今、多くの人が見て、魅力を感じる。そういうことが起こっていると考えると、確かに然りだなあと。
自分に身近な例で言うと、園さんの映画。園さんの映画は、園さんが実際に体験したけもの道な人生がベースになっている。それは、園さんの言葉を借りて言うなら「非道なもの」であって、この文脈に合わせて言うなら「オリジナリティが強いもの」。そういうものに、別の人生を生きている自分が強く惹かれているという事実は、まさに上に書いたことの実例だと思う。
このへんのことを考えていたときに「はっ…!」と思って、井上さん × ガウディの展覧会に展示されてた漫画を読み返してみたら、やっぱりこの中でも「独創」という言葉と「世界中の人に通じる言葉」という言葉が同じような意味で使われていた(と認識している)。対象は違えど、1 人の人間の没頭の産物は普遍的な力を発揮するんだなということが、ここからも伝わってくる感じがした。
そして、ここまでのことを踏まえて、以下の Chim↑Pom の文章に戻ってきたら、すとんと腑に落ちた。
人生が作品に匂っていなければ、つまり作品がその人の生きた痕跡でなければ、僕らは何を手がかりに作品を紐解いて、その時代や社会を見ればよいのでしょう?社会的な作品も「人が生きた社会」として表現されていなければ、リアリティはありません。つまるところ、アートと人生は同義なわけで、オリジナルというのは「生き様」なのではないかと思うわけです。
もちろん、ここに書いたことはアートに限った話ではないと思っていて、自分にとってプログラミングが手段であるようにアートも手段だと思うので、そう考えるとちょっと先が見えた感じがした。
「答える」と「応える」
表現せざるを得ない「何か」があるかどうか − 結局アートはそれをすべてのアーティストに問うているのかもしれません。答えられなくても、応えること。「正解」や「道徳」を過去のアーティストが超えられたのは、この態度があったからだと思います。
アートとか映画とかを観ると「結局何が言いたかったの?」と答えを求めてしまいがちになる。自分も「つくり手はなんらかの答えを用意しているはずや!」と思って作品を解釈しようとするけど、「勝手に都合よく解釈はできるけど答えなんてないでしょこれ。。」みたいなのに頻繁に出くわす。そんなのに出くわしたときに、「あ〜〜〜まじか〜〜〜意味わかんないわ〜〜〜」って言いながらあーでもないこーでもないとモヤモヤ考えてるのが好きではあるんだけど、やっぱりなんらかの答えはほしい。でも、全てに答えが用意されたうえでつくられているわけでないんだなと。表現せざるを得ない「何か」に応えたんだなと。それでいいんだなと。
とはいえ、そこで解釈することを放棄してしまったらそれはそれで全く意味がないので、それなりに噛み砕きはする。でもやっぱり飲み込めないものはある。そういうときに、何が自分の血肉になったんだろうなと。ちょっと考えてみたら、それはそのまま「不安定さ」(作品を解釈できないモヤモヤした状態)が血肉になっているのかなと思った。今の自分の安定をわざと崩すことで、それが次の安定へのモチベーションになるし(人間の脳は、安定を求めて 錯誤帰属や作話 といった行為を無意識かつ頻繁に行う性質がある)、さらにそこで得た安定を崩して、、、みたいにしていくと前に進んでる感じがする(M っぽい)。また、その過程で相対的に普段の安定が見えてくる(死を認識することで生を認識できる、みたいな)ので、視野が広がって、自分の状態を客観視して認識しやすくなってる気がした。し、これは十分意味があることだと思う。
でも、答えが読み取れなかったものについては、その表面的な要素を判断材料に消化してしまっていると思うと悲しいものがある。例えば、園さんの映画に「エログロ」っていう評価がつきまとうのはそういうことなんだろうなあと。なので、観る側もしっかり応えることが大事だなと思った。ゼウスのヴィジュアル・キッドナッピングに対して身代金 50 万ユーロを支払ったラバッツァ社を見習わなきゃいけない。し、個人という小さな規模でも、社会や国といった大きな規模でも、こういうハイコンテキストなジョークのかけあいみたいなのが多発すると、おもしろいだろうなあと思う。そういう状態になったとき、つくる側と観る側の間に境界線なんてものはないだろうなあと思った。
まとめ
- 生き様というオリジナルにこそ不変(普遍)性がついてくるので、もうちょっと自己中にがんばろう
- 安定してる自分がいたら、さっさと不安定にして、次の安定へと進ませてあげよう
- つくる側としても観る側としても、応えていこう